2018年12月29日土曜日

備前市吉永町の龍泉山

このコースは、ほぼ([1])の通りです。まず吉永小学校隣りの与七郎霊苑から奥に歩くと、東西に山道があります。東に行くと峠がありますが、ここにはお札が立てられているだけで、山に入る道はありません。もっと東に歩くと南側に墓地があって、その反対側に細い用水路があります。これが登山道のようです。入口には何も書かれていません。本当は斜面をぐいぐいと登って尾根を歩きたかったのですが、かなりの藪なので、藪こぎは後にとっておいて、用水路に沿って山裾を歩きました。倉吉の集落の奥に砂防ダムが二つあり、その先は谷あいの道になりました。両側は岩山なので谷も岩が多く、歩きにくい道です。しかし倒木などはなく、峠に近づくとお地蔵様があります。隣に置かれている四角い石にもなにか掘られているようでした。さらに鞍部へと北に歩きました。「つづら北方へ」という札が木に下がっていますが、つづらというのは葛籠、北方も八塔寺川沿いの地名です。北に降りればそちらに行けるでしょう。しかし鞍部からは急斜面を西に登って、東山城跡に行きました。枝をかき分けるだけでなく、途中からはシダ藪を登らねばなりません。山頂には龍泉四等三角点(267.12m)があります。付近の地形は確かに城跡で、特に八塔寺川の方に伸びる尾根には何段か曲輪が作られています。

城跡から鞍部に戻り、お地蔵様の東に「龍泉山へ」という札を見つけました。昭和35年の治山事業の標石が立っていますが、そちらには行かずに280m+ピークの東の鞍部へ登りました。だいたいは道があります。鞍部からは280m+ピークに行ってみましたが、何もありません。引き返して北に登って少し東に逸れると眺めの良い岩場があります。岩場の上の藪を抜けて道に戻り、やや西側を巻いて登っていくと、石段が現れました。これだけ藪を抜けた後にしっかりした石段があるとびっくりします。これを登ると地形図にお寺のマークがあって建物が描かれている場所ですが、建物は崩壊して瓦が散乱していました(写真)。石積みで囲われており、墓塔のようなものもありますが、年代の分かるようなものはありません。地形図に建物が描かれていることから、建物が崩壊したのは最近のようです。廃寺跡からは北に歩き、東に曲がりました。道ははっきりしません。シダが生えており、藪を抜けていくと、アンテナがありました。ソーラーパネルと蓄電装置の付いた本格的なもので1992年頃に建てられたようですが、アンテナの形から考えて今は使われていないでしょう。この先も藪が続きますが、いきなり小さな壊れた祠が3基並んでいました。この意外性がこの山の面白さだと思います。祠から南には道がありますが、溜池の方に降りていくようなので、祠から東に歩くと岩場があり、さらには尾根を通って龍泉山の350m+の西のピークに着きました。この付近にはマーキングがあって助かりました。さらに南東にマーキングを辿って、倉吉三等三角点(367.86m)のある東のピークに着きました。周囲は藪です。

山頂からは田倉越に降りることにしていました。マーキングも道もないのでGPSを頼りにシダ藪突破を試みました。背の高いシダの群集を避けつつ降りていくと、踏み跡がありました。概して尾根の北側に付けられており、これを辿って降りていきました。途中でシダの中で踏み跡が確認できなくなるところがあって、見失ったかも知れませんが、とりあえずなるべく北側の藪の薄い方を通って降りていくと、林道に出ました。北側が伐採地で、林道が尾根上で折り返していました。林道で降りることもできましたが、そのまま尾根を降りていくと、尾根の北側にはネットが張られていて、その北を林道が降りていっていました。ネットの南側はシダが生えていましたが、膝程度までなので、なんとか隙間を探して歩きました。最終的には林道は田倉越まで行かずに北へ行ってしまいますが、ネットは峠まで達しています。峠には何かありそうなものですが、特に人工物は見つかりませんでした。田倉越からは谷を降りました。地形図には谷の東寄りに破線道が描かれていますが、実際には最初は道ははっきりせず、少し降りると谷の西側に道がありました。ときどきシダに侵食されたりしていましたが、問題なく下の溜池まで降りることができました。

展望 ★☆☆
藪山度 ★☆☆
地形図は「和気」です。

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