2021年12月29日水曜日

備前三ツ石の野谷峠

 


山陽本線の三石から吉永の間の北側では山並みが南北に走っていて、峠が3つあります。いちばん東の野谷峠(タワと地形図では振り仮名が振ってあります)に行ってみました。ただ谷を歩いて峠に行くのでは面白くないので、西側の山を歩くことにして、山陽本線に近い本村の墓地に行ってみました。江戸時代からの墓石がありますが、その上の方からネットを跨いで藪に入りました。この斜面は最初は登りやすいのですが、急斜面になるとシダが茂っていて登りにくくなりました。楽そうなところを探して、西寄りに移動して登りました。170m+まで登ってもシダは膝くらいまでありますが、平らなのでだいぶ楽になりました。とは言え踏み跡はかすかで、方角もよく分からず迷いつつ北に歩くと、小振りな西日本万富~三石64鉄塔に着きました。ここからちょっと巡視路がありますがすぐにシダ藪となり、坂を登って207mピークには石仏が2体ありました。新しそうですが、台座の文字は読めませんでした。


シダ藪はまだまだ続きます。150m+鞍部の手前は大きなシダの塊があって東を巻きました。鞍部は切通しになっていて道が横切っています。その先もシダ藪ですが、標高200m付近の急斜面は岩が多くシダは少なめです。しかし少し登るとまたシダ藪でした。それでも標高353m付近は平らでシダも少ないので少し楽になりました。とは言え所々にシダ藪がありました。新田四等三角点(369.83m)は薄めの藪の中です。


三角点を過ぎるとわりと道らしい切り開きがありましたが、野谷峠へは東に曲がらねばなりません。こちらもシダ藪が多いのですが、道らしきものがあるのでそれに従いました。するとシダ藪の間を抜けて東の尾根に出ることができました。296m地点を過ぎると落ち葉の斜面になり、やっと楽しめる山歩きになりました。しかし相変わらず時々シダが茂っています。270m+から北に折れて下っていくと、鞍部に道が通っていました。ちょっと場所は違いますが、地形図の破線道のようです。鞍部の反対側には文化八年の石仏がありました(写真)。峠からは南に谷を降りましたが、道は西側斜面につけられていました。削られ気味ですが、西の谷と合流する付近まで続き、あとは谷側沿いに歩きました。溜池が近づくと徐々に道らしくなりました。この溜池の土手はコンクリートではなく土の土手です。土手の下の東側の谷は岩の急斜面で面白そうだったのですが、登ると降りられなくなりそうだったのでやめておきました。そのまま南に下って林道新田線に出ました。


所要時間4時間弱ですが、シダ藪は疲れました。


展望 ☆☆☆

藪山度 ★★☆

地形図は「備前三石」「和気」です。



2021年12月25日土曜日

南から登る生野の渕三角点

 


生野の南西にある渕三角点には、2013/04/13に北から行っています。今回は南の渕から行ってみました。渕の東に下垣内踏切があります。踏切手前の山側は墓地で、その奥にネットから山に出る扉がありました。これを抜けて斜面を登っていくと、水路がありました。地形図にもありますが、1mほどの幅で両側に1m以上の壁があるU字の水路です。水は流れていなかったのですが、越えるのは難しそうでした。しかし少し西に歩くと水を下に落とす取水口があって、ここから水路に入りました。そして壁を越えて水路の上側に出て、急斜面を登りました。この斜面には地籍調査のピンクテープがあります。藪はひどくなく、落ち葉は薄くて滑りません。少し登ると平坦な場所が現れる尾根なので、あまり疲れずに登れました。徐々に切り開きも現れて、特に標高450m付近で渕の大歳神社付近からの尾根と合流すると道がありました。こちらから登るのが正解なのでしょう。大河内街GPS2級基準点があり、CATVのポールがありましたがアンテナはありません。そのまま岩の多い斜面を登ると、大河内線一二鉄塔がありました。ここは各方向に展望があり、北側は段ヶ峰付近の雪がよく見えました(写真)。


鉄塔から東に向かう尾根は巡視路なので楽に歩けます。651mピーク付近には共同アンテナがありました。植林の中に黒いプラ階段があり、それを登ると大河内線一三鉄塔に着きました。周囲は藪化しているため、少し南側を巻いて東のピークに上がると、渕四等三角点(698.64m)がありました。展望はイマイチです。


下山は2013/04/13と同じく南東の尾根を歩きました。植林ですが最初はかなり藪っぽくなっていました。途中はネットが張られていました。標高640m付近まで降りて、前回は東の尾根に向かったのですが、今回はより出発点に近い南向きの尾根を降りました。この選択は明らかな間違いでした。この尾根は最初は割と歩きやすいのですが、標高が下がって550m付近まで来ると急になってきました。それでも尾根を降りようとしたのですが、はっきりした尾根はなくて斜面を下っているような感じになってきました。さらに大きな岩があって、それを巻かないと降りられなくなりました。大岩は何度か巻く必要がありましたが、そのたびごとに急斜面を降りなければなりません。結局斜面を歩いているのと同じような感じでした。とても危険な下山でした。


そして最後は水路ですが、その山側には電柱があって電線が平行に張られていました。ここでも水路をどう渡るかが大問題で、流れてはいませんが水があり、しかも水路を越えても谷側は急斜面です。結局越えられる所まで水路沿いに歩くことにしました。東向きに歩けばいずれは水路が道路の谷側に出ることはわかっていたので、東向きに歩きました。しかし水路の山側は急斜面で、最近切った木も転がっていました。危険な斜面を登らざるを得ない場所もありました。谷側に階段がある所もあったのですが、水路を渡るのが困難で諦めました。結局苦労して北向きに歩き、植林に入りました。ここからは歩きやすいのですが、この植林は石積みが何段もあって驚きました。かつては段々畑だったようです。その植林の端に「篤行の少女 岸田まさえの碑」がありました。「昭和5年卯月15日危急に迫れる老婆を救わんとして鉄路上の露と消ゆ 行年18歳 乙女の純情を讃え 生野鉱山有志建之」だそうです。線路からも道路からも見える位置ですが、見ている人はいるでしょうか?隣には岸田家の墓があり、線路に降りられます。線路沿いに少し歩いて道に出られました。


あとは道路を歩いて帰りましたが、生野浄化センターを過ぎて道路から水路を見上げると立派なものだということがわかりました。途中にはお地蔵様(?)も祀られていますし、真名谷踏切の所には昭和34年にここで殉職した蒸気機関車の機関士の弔魂碑があります。真名谷踏切と下垣内踏切の間では水路から土管で水が落とされており、下には生野株式会社の長谷発電所があります[1]。明治34年運転開始だそうなので、水路もそのくらい古いものなのでしょう。栃原川からも取水していたようで、この水路が市川と栃原川を結ぶ形になっているのもそのせいなのかも知れません。現在でも水路の手入れが行われていました。


展望 ★☆☆

藪山度 ★★★ 水路には要注意です

地形図は「生野」です。



2021年12月11日土曜日

吉永町都留岐の城山

 


岡山国際サーキットの南にある城山を、東の大股から尾根伝いに行ってみました。大股から城ケ畑池に向かう道には、レジャー目的の車は侵入しないようにとの吉永町からのお願いが立てられています。この道を少し歩いて、東に突き出した尾根の先から登り始めました。木のまばらな急斜面を登ると岩が聳えていましたが、ちょっと回り込んで登れる場所を見つけました。岩の上は灌木のまばらな藪で、少し登って220m+から北に歩きましたが、ちょっと展望があって八塔寺山が見えました。しかし枝が邪魔で歩きにくく、260m+から西に曲がって標高300m付近に来るとシダも生えていました。この先最後まで山の雰囲気は変わりません。灌木の疎な藪でシダが膝くらいまで生えていることがある、という山です。ピークや鞍部では多少の切り開きがありました。アップダウンがあるのですが、方位をちゃんと確認しないと景色だけからではどちらに歩いたらよいのか検討がつきません。320m+ピークから北に降りた280m+の鞍部は西の端を歩くのが楽でした。その北の310m+も、北に降りる所を探すのに苦労しました。シダ藪に踏み跡があるところが多いのですが、見失ってしまうことも多く、適当に歩きました。そして大藤下四等三角点(329.23m)に着きました。標石はシダに隠れていました。


三角点から先も灌木とシダの藪が続きました。この付近には道があって、それを使うのが正解と思います。二つのピークを越えて西に曲がって250m+の鞍部に着きました。地形図には破線道が描かれていますが、ここは浅い切通しで、古そうな道が通っていました。ここから西に登るところは急斜面がシダで覆われていました。足元が見えないのが問題で、木に掴まって登りました。350m+まで登っても最初はシダ藪でしたが、徐々に開けた感じになってきて、道もありました。390m+ピーク付近はシダ藪でしたが、真ん中に石積みがありました(写真)。これは近くの山でも見ましたが、この上にお地蔵様が載せられていたのではないかと勝手に想像しています。しかしその割には付近に道はなく、西に藪の斜面を降りました。降りてもすぐに道はないのですが、ピンクのマーキングが現れました。サーキット場の音も大きくなりました。そして徐々に道らしくなり、西に植林を直登し、今度は黄色いマーキングに従って南に歩きました。この道は少し西に行ってから南に曲がり、350m+ピークを横切って西に行きますが、城山の手前の鞍部で北に向かってしまいました。ここから城山へはマーキングがなく、急斜面の藪を登りました。城山の山頂には都留岐三等三角点(407.05m)がありますが、他には何もなく、展望もありません。名前は城山ですが特にそれらしい地形は見られませんでした。


城山からの下山は南に藪を降りました。最初はやや手強い藪でしたが、すぐにこれまで同様の灌木の藪になりました。見通しも効かず方向が定まらずに彷徨いながら降りていきましたが、突然共同アンテナが現れ、そこからは電柱があったのでそれに沿って降りました。これも少し怪しくなる場所がありましたが、2つ目のアンテナを過ぎた付近からはわかりやすくなり、最後は墓地に出てきて道路(県道90)に出られました。


灌木とシダの藪ですが、この付近の山の自然な姿だったと思います。


展望 ☆☆☆

藪山度 ★★☆

地形図は「日笠」です。



2021年12月3日金曜日

古屋から登る和田山

 


大屋町和田の谷奥にある廃村古屋は2014/09/20と2015/05/05に来ています。今回はまず古屋を探索しました。地形図の太い道の終わりまで車で入れますが、そこから西に歩くと「小倉家屋敷跡」の杭を見損ないます。地形図の実線道を歩くと、立派な石垣の上にこの杭が立っています。杭は剥げていて読めない部分が多いのですが、延べ188平米の2階建てだったようです。別棟に浴場と便所があり、養魚池もありと、たしかに屋敷です。ここの先で道は二手に分かれ、北側の道が本道らしいのですが、その先の北側の谷を通る所で崩落してるようで、倒木もあり、進めません。いつもどおりに真ん中の石垣の上に上がると、家があったらしい平らな土地になります。それが終わるとさらに石垣が続いて、「小倉屋敷石垣」の説明板があります。宝暦元年の完成とのこと。この石垣の上が小倉製糸工場敷地跡となっています。建物の基礎らしきものが残っています(写真)。ずいぶん奥に工場を作ったものだと思います。その奥には小倉作治さんの家の跡?があり、その先にも石垣が続きます。この付近には金属製の高い柱が2本立てられています。谷の南側には墓地があり、入口の小倉家供養塔は平成10年と新しいのですが、その左には亨保の墓石があり、宝暦以前から人が住んでいたようです。


さて古屋を探索した後は和田山に登りました。古屋の北に林道があり、これを登るつもりだったのですが、谷沿いの道が崩落している付近にこの林道への橋があったらしく、それも無くなっているので林道に出るには深い谷を渡るしかありません。幸いに水量は少ないのですが、北側斜面は石垣のある急斜面で、これを這いつくばって登って林道に出ました。この林道は到達不可能なので当然荒れ気味ですが、歩くには問題ありません。すぐに周囲は美しい植林になりました。一度西の尾根で折り返し、東に向かって斜面を少しずつ登って行きますが、崩落箇所も増えてきます。そして地形図通りに尾根で終わっているので、ここから尾根登りになりました。最初は非常に急ですが、すぐに植林になり、歩くには問題なく、標高差200m近くを真っ直ぐに登りました。740m+まで登ると2021/08/07にも見たネットがあって、ネット沿いに和田山三等三角点(809.1m)に着きました。雪が少しありました。


ここからは2021/08/07の逆コースで、気持ちの良い尾根を南西に降りていきました。750mピークを過ぎて、古屋めがけて南向きの尾根を降りました。これも問題なく、西側は植林、東側は自然林の所が多かったようです。ちょっと急な斜面を降りて、536m地点に着きました。ここから東に降りる尾根は先が林道に登り始めた付近に達していて、また谷を渡る必要があるのかと思って、南向きの尾根を降りました。しかしこれは勘違いで、実際には東に降りても谷を渡らずに古屋に着けたはずです。わざわざ選んだ尾根は非常に急で、木に掴まれればよいのですが、木の数が少なく、地面には落ち葉があって滑りやすく、場所によってはお尻で滑って降りました。服が泥々になりました。とにかく谷間まで降りると、2015/05/05に登った谷で、この付近にも石垣があります。墓石の三基ある墓所があり、段々畑の跡の植林を降りました。破線道に相当する道は谷の北にありましたが、橋があったと思われる付近で南に渡り、ミツマタの藪を抜けて道に出てきました。再び古屋の石垣を見ながら谷を降りました。


展望 ☆☆☆

藪山度 ★★☆

地形図は「大屋市場」です。