2019年6月9日日曜日

八東町船岡の半柵城址

実は城跡を見ようと思って歩きはじめたわけではないのです。
八東町船岡の天満山には2019/05/19に登りましたが、今回はその更に奥の山を歩きました。天満山から南に縦走して峠に降りた時に、南の山に登る道がありました。ここは「まるせの森」として整備されているようで、舗装された道は多目的広場へ向かっていました。途中に山頂への道があり、これを登ると丸瀬山の山頂に出ました。途中に町道への分岐があったので、直接登るルートもあるのでしょう。山頂には石碑と建物があります。ここは「游界上人の墓」だそうで、1672年に即身成仏・入定の地とされています。故郷の隠岐島の見える所に埋葬されたとありますが、木が育って水口が僅かに見える程度です。山頂から南に歩くと平坦地が続きます。ここは山城(丸瀬城)跡のようです。三角点もあったはずですが見落としました。

南に続く尾根は下草はなく、時に倒木が邪魔なだけで歩き易く、軽快に歩きました。しかし、西側の尾根との合流点に向かって登る所は急斜面がありました。急斜面の手前にポールがあって、案内板が地面に落ちていたのですが、「半柵城」と読めたので、城跡があることに気付きました。主尾根に上がると、「見晴台へ2(あとは切れていて読めない)半柵城跡」という道標がありました。自然林を歩くと、515.1mピークの手前に平坦地があって、いかにも曲輪らしく、この上が城跡かと思ったのですが、金属製の湯ノ谷四等三角点(515.12m)は灌木に囲まれていて、半柵城跡ではないようでした。更に南に歩くと次の556mピークへは岩場登りとなり、ロープもありました。ここからは八東川沿いが望めました。そして556mの山頂には、半柵城跡の表示がありました。伊田一族の本拠地だそうです([1])。道標にあった「丸瀬山へ2440m」は歩いてきた尾根ですが、北向きに「金鉱跡、第1鉱道へ2360m」が気になりました([2])。展望はありません。

半柵城址から南に歩きました。城跡らしく平坦地や堀切があります。540m+ピークには地籍三角点がありました。展望もちょっとあります。そして急斜面を登ると、下野二等三角点(595.95m)のある山頂に出ました。切り開かれていていて、風が心地よく良い感じです。さらに、ついでと思って574mピークまで行きました。このピークはかなり尖っていて、こちらからが登りやすそうだったからです。ここは実は鉢伏城跡のようです([3])。広い平坦地です。

帰りは下野三角点まで戻って、下山は西寄りの尾根にしました。こちらの尾根から攻め登られることもありそうなので、切掘くらいあるかと思ったのですが、特に何もありません。木の間隔の広い気持ちよい尾根だという他には特筆すべき点はありません。三つめの500m+小ピークから北寄りに曲がって降りる付近は、尾根は石英っぽい岩が多く藪っぽいのですが、西側下方は雰囲気良さそうななだらかな斜面でした。よく見ると林道があって、これがすぐに尾根にも上がって来ましたが、405mピーク手前で終わっていました。ここから405mピークを過ぎる付近は少し藪っぽくなりました。その先では尾根から外れて北に降りなければならないのですが、実際には尾根は平坦地の西端を北に向かって続いていました。ここの平坦地は植林されておらず、木はまばらでとても気持ち良い場所でした。できれば少しくつろぎたかった場所です。尾根は298mピークへと登りますが、ここは倒木の多い歩きにくい場所でした。地形図ほど平坦でもありません。北の尾根に降りる場所はよくわからず、GPS頼りに斜面を降りましたが、意外とすぐに尾根があって、楽に降りられました。

250m+の少ピークから北の尾根にはしばらく緑のネットが張られているのですが、驚いたことにポールの代わりにゴルフのクラブが使われていました。100本以上はあったと思います。近くのゴルフ場で捨てられたものなのかも知れませんが、なんとも贅沢なネットでした。ほとんどの場所でネットは地面に落ちていましたが、クラブは一列に立ったままなので、シュールな風景でした(写真)。その北はしばらく竹藪を抜けて、234mピークに近づくと藪っぽくなりましたが、その中に堀切がありました。これは松尾城だそうです([4])。東寄りに尾根をおりましたが、段々に平坦地が作られており、それが延々と続いていました。この付近だけ背の高い笹が生えている(ほとんど枯れていましたが)のも特徴的でした。平坦地の先は少し急斜面となりましたが、真っ直ぐに降りて、最後は竹藪を抜けて道路に出ました。

予期せず城跡巡りになりましたが、長く充実した山歩きでした。

展望 ☆☆☆
藪山度 ★☆☆
地形図は「因幡郡家」です。

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