2017年8月20日日曜日

波賀町の流田三角点

播磨は古来より鉄の産地で、江戸時代中期以降はかんな(鉄穴)流しという方法で砂鉄を採取したことで知られています。この方法は山の斜面の土を削って水とともに流して重さの違いで土と砂鉄を分けるのだそうで、行われた後には削られた山と泥の堆積地が残ります。その典型的な地形として知られるのが、波賀町上野付近の齋木、皆木、飯見付近です。この付近は何度か歩いて不思議な地形を見てきましたが、今回は斉木川南側の山でかんな流しの跡を見ようと思いました。

歩き始めたのは波賀町流田付近で、斉木川を渡る橋が掛かっています。橋を南に渡ると案内マップがありますが、川の南側については深山と蔦沢越しの深山登山口が書いてあります。とりあえずはこの付近から山に入ることにしました。道を少し南に歩いて、墓所の脇から山に上ると、金網がありました。金網の向こう側は明らかにかんな流しの跡ですが、入り口がありません。金網に沿ってずっと東に歩くと、「入口出口]と書かれた扉がありました。この扉は壊れて鍵がかからないので、開かないようにトタン板で抑えてあります。ちょっと苦労して板を動かし、扉に隙間を作って山林に入りました。この付近は典型的なかんな流しの跡で、広い谷の間に筋状または孤立した小山が残っています。地面は土石流の跡に枝打ちした枝が落ちている程度で歩きやすいのですが、場所によってはシダが茂っています。なるべくシダを避けて登っていきました。主に削り残した場所の上を歩きましたが、なぜその場所が残されのか、今となっては理由は分かりません。「鉄穴残丘(かんなざんきゅう)」というほどのものではなく、大きな岩でも埋まっているのかも知れません。かんな流しには水流が必要ですが、この付近には水はまったくなく、近くの川まで土を運ぶしかなかっただろうと思います。

なだらかな斜面を470m地点付近まで登りましたが、この付近もかんな流しの跡です。その後もかんな流しの跡を見ながら登り続けると、標高600mを過ぎて東側が伐採地となります。この付近まではかんな流し形跡があります。この伐採地は下からもよく見えます、ということは長めは抜群で、東山、一山、阿舎利山と並ぶ山々、上野の町と城跡、それにかんな流しでできた、なだらかな斜面の上に急な山がそびえる地形がよくわかります(写真)。伐採地の脇の植林を登り、アシビが茂る藪を通って登っていくと、流田四等三角点(731.06m)に出ました。周囲はシダ藪です。ここからはシダ藪をかき分けて歩いて西の尾根に進み、南に尾根をアップダウンし、728m鞍部に降りると、西側は林道がUターンしていました。東側は伐採地です。ここから840m+ピークまではシダの中を登りました。植林で日差しはないのですが、足元が見えず間伐材もあるので疲れました。

840m+ピークには何もありませんが一休みして、下山を考えました。東側は伐採地で伐採に使った道があるのですが、草が茂っている上に木がないので日差しが強くて歩く気にはなりません。結局尾根を東に歩いて地形図の破線道を辿ろうとしました。しかし尾根に道はなく、しかもシダの密度がどんどん上がっていきます。尾根先から南東に降りる所は倒木を覆い隠すようにシダが茂っており、楽な方向に歩いて行くと、北東の植林に向かうことになりました。ひどく急勾配でもないのでこちらで下山することにしましたが、木に掴まらなくても降りられる程度の勾配とは言え、倒木をシダが覆い隠している状況は変わらず、何回か足を滑らせながら植林の中を下山しました。降り立った谷も荒れていましたが、問題なく林道に出ることができました。林道を歩いて、出発点まで戻りましたが、この道には電柱があり、「御空」「ゴソロ」と書いた札が貼ってあります。ゴソロ山というのはこの東にある通信塔のある山で、2011/08/20に登りましたが、この漢字名は意外でした。そのゴソロ山への分岐点には、石の道標があります。字はほとんど読めませんが、「右」が左側に書いてあるようなのが不思議ですが、「左つた」と読めそうなので、「左]が実は「右」で「右つたさわ」かも知れません。蔦沢というのは山崎町の伊沢川沿いの地名で、今でも山崎蔦沢郵便局があります。

かんな流しの跡を見ながら森林浴を楽しめました。この付近では陽の当たらない植林にもシダが茂っているのが特徴的です。840m+ピークから蔦沢越しへは、2010/09/04に歩いていますが、やはりシダ藪だったようです。

展望 ★☆☆
藪山度 ★★☆
地形図は「安積」です。

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