2010年4月25日日曜日

山崎から行った神保

山崎の山奥にあった神保という集落のことは、[1]で知りました。昭和47年に廃村になった平家村だそうです。地元の人に聞くと、ここの子どもたちが菅野小学校まで歩いて通っていたという話は結構有名なようでした。雨ヵ岳に行ったとき(2006/12/29)に寄ろうとしたのですが、倒木がひどくて行けなかったという経験があります。今はどうなっているか、見に行ってみました。

神保は、山崎から中国自動車道沿いに西へ行き、高下の集落から南に行ったところにあります。そのまま南に行くと栗栖池を通って西栗栖に出られますので、かつては交通の要所でもあったと思われます。今は高下から南に林道があるので、それを利用します。この林道は、軽トラックや4WDなら問題なく通れます。中国自動車道の下の通路に鹿よけのゲートがありますが、いつもは開いているようです。私は車を林道の入口に止めて、歩きました。

よく整備された林道ですが、峠までは登りです。周囲は美しい植林もありますが、倒木がひどい場所もあり、倒木を処理した場所もあります。宍粟杉の産地ですが、まだ2004年の台風の後始末に追われている感じです。峠をすぎると緩い下りになります。植林に囲まれた谷です。そして、林道は東に曲がっていますが、ここを直進して南に向かうと神保です。

前回はこの先は倒木がひどくて通れなかったのですが、今回は倒木が切ってあり、楽に歩けました。湿っぽいのが難点ですが、植林の谷ですのでしかたがありません。もともとここには道があったわけですが、倒木の都合で必ずしもその道を歩けるわけではありません。また、何度か川を渡る必要があります。橋はないので、幅の狭いところを選んで石や倒木の上を渡りました。水量が多いと大変だと思います。両側の植林は倒木だらけで、道を切り開いた以外には何も手当がされていないようです。ピンクのマーキングが要所に付けられており、迷う恐れはありません。

歩き始めて1時間ほどで、神保に着きました。倒木に埋まっている感じですが、瓦などがたくさん落ちています。地形図に一つだけ描いてある建物は、土蔵でした(写真)。周囲は石垣がたくさんあって、良く整備された畑や田圃だったことが分かります。関西電力のマークの入った金属板が張られた電柱(?)が倒れており、ここまで電気が来ていたようです。少し南に行くと川にはコンクリートの橋が架かっており、ピンクのマーキングもあるので、南の栗栖池まで行けるかどうか、見に行ってみました。

相変わらず倒木の間の切り開きを進んでいきました。川の両側は石積みやコンクリートで補強されており、かなり人の手の入った谷ですが、今は倒木で埋まっています。神保の南に、東から来た支流が合流する地点があります。椿の木があります。ここを南(正確には西南西)に進めば栗栖池なのですが、ピンクのマーキングは東に向かっていました。栗栖池に向かう谷は倒木で埋まっており、全く通行不能です。東へ向かう道の倒木は切ってあり、歩きやすいので東の谷に入りました。最初は石積みがあって耕作地のような所もありますが、そのうちに倒木だらけの谷になりました。何度も川を渡り、1キロ近く進みました。川は細くなりましたが周囲は相変わらず倒木だらけで、足下も切った倒木がそのままで、歩きやすい谷とは言えません。無理に先に進んでも行き止まりであることは明らかなので、引き返しました。

栗栖池方面には、まだ倒木処理がほとんど行われていません。この事情は地形図で境界線を見るとなんとなく分かります。宍粟市とたつの市新宮町の境界線は、この付近では複雑に谷を通っており、神保付近だけが新宮町になっています。境界線はたいていは尾根を通っているもので、谷を通っているのは奇妙です。おそらく土地の所有権に関して複雑な問題があるのだろうと想像します。ピンクのマーキングが東の尾根に向かっていたのも、栗栖池に向かう谷の倒木処理がなされていないのも、そんな理由ではないでしょうか。

栗栖池に行く道は通れませんが、山崎から姫新線の西栗栖駅まで歩くことは可能だと思います。私が行き着いた谷の奥は標高が高く、南の奥小屋の尾根に登るのは容易そうに見えました。尾根に上がってしまえば、尾根伝いに麦子口まで歩くか、上所のあたりに降りることができます(2008/10/13)。その後西栗栖駅までは道路を5キロほど歩かねばなりませんが、山崎町広岡橋のバス停から西栗栖駅まで、4~5時間ではないでしょうか。現在は切り開きができたために通れますが、大雨が降ると切った木が流されて、また谷を埋める可能性もありそうです。行くなら今のうちです。

展望 ★☆☆
藪山度 ★☆☆

地形図は「土万」です。

1 件のコメント:

藪山探検隊 さんのコメント...

2020/03/21に続編があります。